ミニ論文集

  

景  観  再  論


旭川市総務課
内田 和博


 「景観」という言葉をめぐって

 言葉の話から始めさせていただきます。景観・都市デザイン・美観・都市美・まちづくり..etc、についてです。これらの言葉を用いて、美意識に支えられた居ずまいのいい空間を形作ろうとする意思とは別に、意図的である無しに関わらず誤解釈による、都合の良さや文面上だけの取り繕いに対し、しばしば耐え難さを感じずには入られない人も多いのではないでしょうか。あえて例をあげるならば、
・場所性との関わり無しに「景観材料」「景観素材」という高単価のものを使いさえ すれば、景観に配慮したことになるという販促活動と無責任さ。
・地図上の一律な規制や「標準品」としてのエレメントを設定することで景観コント ロールが施したとする施策展開
・プランニングからの広範な意味を外し、狭まった視野の「イロ・カタチ」のみでパ ブリックな領域のデザインを語ること。などなど。
 しかしながら、言い表そうとする事柄に適当と思われる言葉を選択した瞬間から、選択者の意思にそぐわない意味も包含させられ苦い思いをするのは、流通することが言葉の本来の役目である以上、割り切らなければならないことなのでしょう。現実のすり替えやごまかしに耐えつつ...。まして、言葉そのものに所有権があるわけではないのですし


 景観の構造

 では、景観はどう捉えるべきものなのか。それは空間内の物質の表面を取り扱うための用語であると理解するところから始まります。つまり、空間内の物質の量、材質、配置、色、形などをつくりだす原因は、捨象したものが景観です。可視的な物質表面の薄皮一枚のところを、客観的に論ずるためのものです。
 具体的に言いますと、いい景観をつくるため(景観を第一義として)に、いい家をつくりません。いい家が欲しくて、つくるから、結果としていい景観ができることにつながる。本来には、こうです。言い換えると、いい空間、いい環境をつくろうとし努力し、多少なりとも成果が出た。この時にできた景観って、恐らくいい景観なのだといえると思います。ですから、景観のための「景観事業」って、おかしいと思うので。いい道路をつくろうとして、いい道路が出きると、恐らくそれはいい景観につながる道路なのだと思います。ですけど、景観をよくしようとして道路事業をするというのは、順序があべこべなんだと思うんです。景観そのものは「できる」「できてしまう」ものなんだと私は考えます。
 「鍋」と言い表すことができると思います。「景観=蓋を取った瞬間の鍋」論です。材料は参加者の持ち寄りの鍋です。参加者はおいしい料理を食べたいんです。いい蓋を取った瞬間の鍋を作ろうとしているわけではありません。あくまで、美味しくしたいのです。ですから、蓋を取った瞬間の鍋としては「できる」「できてしまう」ものなんです。材料持ち寄りですから。誰かが頑張りすぎちゃうとバランスがとれません。ひどいものを持ってこられると、めちゃくちゃです。素材のよさだけで食べちゃう「水炊き」は、さしずめ自然景観といえるでしょう。
 比喩を続けます。カニや春菊の入った美味しい料理を食べたい。そのためにいいカニや春菊を揃える。恐らくこれはいい蓋を取った瞬間の鍋につながるのだと思います。ですが、蓋を取った瞬間の鍋をよくしようとして、カニや春菊を買いに行くというのは順序がおかしい。参加者みんなが求めているのは、あくまで、おいしい料理なわけですから。
 このメタファーで、料理とは環境・空間を指します。参加者は、市民・事業者・行政などなど。カニや春菊は、個人の自宅建設や、行政やディベロッパーの大規模開発まで様々です。料理のレシピは、都市計画法の用途地域などの規制や世田谷の界わい宣言、個人間の紳士協定を指します。最後に料理人ですが、それは行政、民間を問
わずプランナーです。

 景観における「主体―行為」

 言葉そのものの話から、景観そのものについて話題を変えることにします。
 景観を考えている間に、すっかり「景観をつくる」という物言いに、うんざりするようになりました。不遜だと思うのです。「何様のつもりだ」と思うのです。物質で景観を瞬間芸のように「つくった」つもりでいられると、真剣に論じる気が失せるのです。かつて大手開発会社のCMを批判した文章がありますので、引用します。
  このことは、「○○地所が作った街です」というCMコピーと比べて見ればよくわかる。いったいどこのどいつが街なんてつくれる。街を作るのはその土地が気に入って集まった住人ひとりひとりだ。あの天才コルビジェが設計した完璧な集
 合住宅からさえ労働者たちはすたこらさっさと逃げ出した教訓をもう忘れたのか。企業が街を作るだって?
  バカめ!コンクリートの壁が押し迫ってくるような採算ベースぎりぎりのファストフード店やエレベーターに卑猥な落書きをされるのがオチのオートロック・マンションを建て、その継ぎ目に三車線道路を敷けばそれで街が出来上がるとでも思っていらっしゃるのだろうか。そんな街は見栄えだけはいいだろうが、断言しておくけど、安くてうまい、あるいは高くてもうまいものをお客に食わせようと必死の眼光で鍋を見つめる食堂のおやじも、われわれのクルマが壊れたとき油まみれになりながら適正な料金でガスケットを交換してくれる腕のいいエンジニアもそっぽを向く。なぜ断言なんかできるのかといえば、当の私がそんな計画都市に暮らしているからだ。ハハッ、サイテーだな、こりゃどうも。
  街を作るのは街の住人で、その住人が「なんかいえでもたてかえたいなぁ」と思ったときに「はいはい、ではこのご予算でやらせていただきます」というのが企業だろうに。

文:神足裕司 NAVI(二玄社) No.122 1994.4 p.24~25

 神足氏の言葉を借り、「いったいどこのどいつが景観なんてつくれる。景観を作るのはその土地が気に入って集まった住人ひとりひとりだ」と言いたいのです。人文地理屋らしく言えば、イギリスの田園風景がいい、古い町並がいいというのは、流行に左右されないツィードのジャケットを着続け、アフタヌーンティーをたしなむという人々の生活様式が育んだもので、その土地や建物の表面を剥いで、他の土地に被せたところで、所詮、上っ面のものでしかないということです。フィロソフィーなき、内在する文化に基づかない景観なんてありえないんだ、と。
 かつて、景観に関わる行政は、景観問題に(対症療法的に)対応することでした。(良好な現状の)景観が破壊されそうな事態から守ろうとする運動に対応することでした。「景観論争」などと紙面をにぎわしていました。
 この話も、景観だけでとらえるべきではないと思います。その景観を成り立たせしめていた社会・文化そのものを守りたかったはずです。当然、その表徴として景観が守るためのシンボルだったことは言うまでもありません。開発規制や保存指定だけでは行き詰まってしまった例は、社会・文化という本質を避けてきたからです。
 私は、こう思います。景観を考えることは必要であり大切なことです。しかし、景観を景観だけから考えている内は景観は良くならない、と。「都市デザイン」には不遜さを感じません。景観は(誰かが)つくることはできませんが、都市をデザインすることはできます。それは景観が多様な意思の積み重ねの"結果"であるから、特定の誰かがつくり得ない(仮につくり得ても瞬間芸に過ぎない)のに対し、デザインする"行為"は多様な意思のコーディネーションを含んでプロセッシングを含意するからです。

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