私たちの義務教育は9年である。義務教育を終え社会で働くか、それともどこかで勉強するか、または別の道を進むか、そのへんは自由であるが、いずれにせよ二十歳になれば成人となり社会的には法律上、大人として周囲から対応される。
さて、社会に出てから知識として必ず知っていなければならないことが義務教育で教育されているであろうか。
教科に社会はある。憲法や法律、政治の仕組みは勉強する。しかし、その勉強の対象に対しどれだけ自分のこととして捉えられているだろうか。試験のため受験のための暗記で終わっているのではないか。民主主義の仕組みは現在進行形で構築される。これで良いというものはない。個人と社会の関わり方によっては良くも悪くも変化していくのである。学生が民主主義政治や経済の現状の仕組みを自らのこととして学び、その知識やそこからくる疑問、新たな発想を社会に発揮していくことはよりよい日本地域社会のために極めて重要である。日本に住む人が日本の社会システムの基本を共有することは民主主義の土台だと思う。
しかし、実際にほとんど有効な教育はなされていないといっていいだろう。どこか企業に所属して「給与からこれこれしかじか毎月引かれます」と担当者から説明され、それを受けざるおえないのである。「20歳から投票に行こう」とはマスメディア等を通じて認識するが、人それぞれの意見を政治に反映させる仕組みにはこれこれしかじかがあり、具体的にどのような手続きがあるのかほとんど知らされる機会はない。これらは「自分で調べて知るものだ」ということなのであろうか。そういうことさえも教育はされていないのではないだろうか。
ところで、公務に携わる人または公務を学問とする人はおのずと社会システムに関する知識を持つ事になるが、同時に公務に携わらない人と知識格差が広がる。公務に携わる人だけが専門的に知っていればいい知識は別である。誰もが対等に知らなければならない知識に差がつくということである。
こうした知識格差の状況の中では「自治」は進まない。共有すべき知識が共有されないようではお互いに対等な議論もできないからである。知識格差を完全に無くす事はできなくても少しでもそういう状況に進もうとする地域にこそ自治が育まれると考える。役人や学者は山の上から「自治のために登っておいで」と市民に話しかけているのが現状である。そうではなく、山の上から降り、皆で共に山を登っていかなければならないのである。皆で共に学びながら進んでいかなければならないのである。それが自治の山へ登る最小限の過程である。