3月 27th, 2015

議論の場

コミュニティ関連, メディア関連, 自治関連, by admin.

 ある場で一人の市民Aさんから聞いたある町の話である。ある路線バスの廃止計画が民間企業から示された。同路線を使っていた地域住民にとってそれは中止してほしい計画であった。廃止の主な理由は同路線を管轄する行政からの補助が打ち切られることによるものだそうだ。住民、行政、民間企業、それぞれにそれぞれの立場や考え方がある。ある時、この計画に関して話し合いをする場が行政所管で設けられたそうで、そこにAさんは参加したそうだ。しかし、その場に議論をする雰囲気はなく、場の進行もお膳立てされていた雰囲気だったそうだ。
 この話のような例は日本国内で日常茶飯事ではないだろうか。建前では「議論」とか「意見を聞く」とかありながら蓋を開けてみるとシナリオが決まっているのである。そのシナリオの流れを崩しそうな態度や発言が起きないような人選や雰囲気づくりをしたり、仮に起きた場合でも予めそれを打ち消す用意をしているかのように崩しそうな人に包囲網を張り巡らすのである。参加者それぞれの英知と本音で意見を交換し合い、そこから事前にはわからない何かの方向を導き出そうという、そんな議論の場が日本国内では「希少」になってきているのではないかと危惧するのである。
 日本社会は少子高齢化が進むがその問題の起き方は地域ごとに様々だ。人口が集中しそれに比例して協力が高まる地域もあれば、逆にお互いの無関心が進む地域もある。過疎が進み行政機能を撤退しなくてはならない地域もあれば、高齢者だけで自立しようと前進し続ける地域もある。地域に住み暮らす人が自分の地域の問題を自分達のこととして考えていかなければ問題は本当に解決していかない時代になったのだ。高度経済成長期から今日に至迄、中央政府が先導し「いけいけどんどん」で地域開発を続け、出てくる問題には深刻度によって対処量法的、場当たり的に対応してきたのだ。しかし、そのような中央政府の対応だけでは限界がある。地域のこと(問題)は地域の人が先頭にたって解決していかなければならないのである。
 この一見至極当たり前のことは簡単にはできない。議論をしていない人々がある日突然議論できるわけもない。議論は子どもの頃から、学生時代から、家で、学校で、会社で、コミュニティで、と様々なところで慣れ親しみ学んでいくものだと思う。議論というと難しく考える人がいるかもしれない。また「議論は苦手」とか「議論よりも行動だ」とか言う人もいるだろう。大切なことは議論と行動、実践のバランスであろう。それが民主主義をしっかり発展させるための条件であろう。まして現代はグローバル社会である。世界に通ずる理論展開が世界に通ずる行動には欠かせない。まずはできるところから議論をしていくべきだ。議論の場を設けるべきだ。そういう積み重ねが大切だ。そして、そうした議論から生まれた指針や結論は生きて次の時間に次の組織に次の世代に繋がっていくものだと思う。
 今真っ先に思い出すことが二つある。ひとつは数十団体の非営利組織で合同開催したイベントの実施後の反省会。出席者の一人が「こんなにまじめに反省する会に参加したのは初めてだ」と述べた。もうひとつはある町内会での会合。ちょっとした案件が発生したが、その案件で関係住民で集まった。席上で会の主催者が「このような会は今迄実施したことはなかった」と述べた。私にとってどちらの会も特別なことではなくある意味当たり前の場であった。しかし、この時思った。社会における「議論の場」は意外に少ないのかもしれないということを。何故少ないのだろうか。まずは日本の義務教育や社会教育のあり方にも大きな問題があるだろう。最初から正解があり、そこに導くような教育、異端や異論に注目するよりもそれを排除するような教育などが考えられる。
 議論をし、それが充実するならば、議論の時間もかかり、結論までの時間もかかるだろう。しかし、だからこそその成果はいつの日か山の頂上となって結実するだろう。すぐに頂上とならなくても、頂上を目指す力は強く凝縮されていくのである。まるで富士山の形のように。
 議論といえば話すのが上手だったり論理展開に長けた人がいる。しかし、そういう人だけで成立するような議論は議論の本質ではない。本質は如何に真理を追求するかだ。例え話が苦手でも何か言葉にしてみることだ。それがたどたどしくても、何か本質を付いているものであれば、それは議論に生かされるだろう。よりよい議論の場とは、上辺の論理がうまく展開することではない。話に長けたものが活躍する場でもない。物事の真理に近づくことなのだ。こういう議論の場に参加し、発言し、次の行動にしていく。そういう一連の流れがまちづくりにもっともっと必要である。
 議論から導きだされた新たなシナリオとその実行、その反省、これらの繰り返しに、市民のまちづくりへの、政治への、自治への喜びと充実があるのだと思う。そういうことの集積が国づくりをも力強く推進すると思う。そして「議論の場」は社会にとって重要な「メディア」なのである。

 
 

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