1月 19th, 2015

コンピュータでつくる映像について

IT関連, メディア関連, by admin.

 50年くらい前、日本で映画ゴジラが誕生した。その後ウルトラマン等特撮によるドラマのTV放映が盛んになっていった。これら特撮に出てくる建築物は実物である。原寸の本物もあれば縮小サイズのプラモデルのようなものもある。実物とカメラワークによって視聴者を映画の世界に引きずり込む。「これは本物とどのくらい似ているだろうか」と意識すれば映像に映し出される建造物を工作物であると断定することは容易である。しかし、そのことが視聴者に白けた感じを与えるわけではない。私はむしろ昨今のコンピュータによる映像よりもわくわくするのである。逆にコンピュータによる映像を薄っぺらく感じる。これは私が子どものころに慣れ親しんだ映像に対する経験から出てくることなのだろうか。今の子どもたちが見れば昔の映像は単に”ちゃっちい”だけであり、コンピュータを屈指すれば同じシナリオでもより感動できるものを作れると考えるのだろうか。

 何故私はわくわくするのか。その明確な理由はわからない。ただ、もしかすると次のようなことではないだろうか。それは「アナログとして実在する」ということである。映像に出ているミニュチュアの東京タワーは東京タワーに似せたものではあるが撮影の際に確かにそこに存在していたのである。そしてそれは人の手によって作られ、同じ物は他に存在しないのである。そんなアナログの東京タワーのミニュチュアがこれもまたアナログ的に怪獣によって壊される。やり直しがきかないわけである。壊れ方についてシナリオで予定は立ててあるがそのとおりにはいかない。アナログの組み合わせは常に「ライブ」なのである。壊れているのは偽物ではあるが、壊れている事自体は本物なのである。一方、コンピュータによる映像ならば見た目には東京タワーをより実際に近いものにすることができるだろう。壊れ方も同様だ。シナリオで立てた予定どおりとなるよう何度でもやり直しが可能だろう。

 「アナログとしての実在」には二度と再現することのできない唯一無二の価値があるのだ。「コンピュータの映像」は何度でも再現可能だ。二度と再生できない映像と何度でも繰り返し再生可能な映像。前者は計算しきれない「結果」であるが、後者は計算の「結果」である。

 あるミュージシャンが20年くらい前に言っていた話を思い出した。「バンドのリズムはその時そこにしか存在しない。そこが面白」。バンドはメトロノームのように正確にリズムを刻んでいるのではないということだ。メンバーのその時の体調や感覚によってリズムは変わってくるのである。これはコンピュータにはできないことなのだ。音楽の話ではあるが映像の話と同等だろう。

 今後コンピュータでつくる映像の流通が増えて行くのは疑いのないことだと思う。だからこそアナログの持つ「実在」の価値に対する感性をより養い、そして育てていくことはより重要になってくると考えるのである。「事実は小説よりも奇なり」という諺を実感し、そして大切にし、真実を究明していくことを人はより”意識”していくべきだと思う。「コンピュータの映像」は私たちに手っ取り早い結果や感動をもたらすのだろうが、私たちの「想像力、創造力」を着実に落としていきかねないと危惧するからである。

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