IT機器は日々進歩し、より使い易くなっているのだろう。ただし、それは進歩に追従でき進歩を歓迎する人にとっての話であり、誰にとっても「使い易い」ということにはなっていない。この3年の間にスマートホンやタブレット端末など画面を指によるタッチで操作するIT機器(端末)が急激に普及してきた。これは、これまでキーボードに馴染めなかったタイプのシニアにとってIT への垣根を取り去ることに一役買っている。反面、パソコンを使うためのトレーニングを積んできたシニア、つまりキーボードやマウスの操作に慣れたシニアの中にはとっつき憎いと感じている方も少なくない。
人それぞれ慣れたIT機器で情報にアクセスできればいい。アクセスとは受信だけでなく発信もある。さて、ここで問題なのはアクセスの可能性の広がりが閉ざされることである。インターネットが日本国内に普及し始めた頃、インターネットを使うための「パソコン」という機械は一般的に複雑怪奇なものであった。テレビやラジオのようにスイッチを入れれば情報にアクセスできるというものではない。ハードやソフト、マウスなどを自らの操作で組み合わせて使うことをしなければならなかったのである。慣れてしまえば問題はないが、慣れるまでに時間がかかった。特にシニアにとっては難解だった。
事務関係の仕事に関わる人にとってパソコンは避けられないものとなっていった。情報の連絡手段、伝達手段としてパソコンは電話と同等に重要なポジショんを占めていたのである。否応無しにパソコンに慣れなくてはならなかったのである。一方、積極的に自発的に自ら主体的にパソコンの理解に努めた人も沢山いる。その理由として、パソコンを操作することで得られるものに高い価値を見いだしたケース、大きな楽しさの予感、または何かしら可能性を感じたケースなどがあげられる。
パソコンとインターネットの組み合わせは個人の情報へのアクセスを飛躍的に変化させた。網の目のように張り巡らされたコンピューターネットワークに分散する情報を1台のパソコンからその検索機能によって探し出すことが可能になった。そしてホームページや電子メールなどにより世界の至る所に情報を、個人が発信することが可能になった。これらの情報、当初は文字だけが現実的であったが、日本国内へのインターネット普及から20年経過した今、動画も普通に行き来するようになった。この動画の往来は社会の様々な問題を解決することに役立ち始めている。しかし、同時に新たな問題も巻き起こしている。米国等他国で開発された情報交換(交流)用のソフト(アプリ)の普及も進んでいる。「フェイスブック」「ツイッター」「ライン」などがある。これらも動画と同様に社会に功罪をもたらしている。
このように情報へのアクセスの方法、手段は様々普及している。しかし、そこには何か「閉塞感」のようなものを感ぜずにはいられない。「ライン」は普及しているがそれは「スマホ(スマートホン)」を利用するユーザーのみであり、「パソコン」を使う人は対象にならない。「パソコン」に慣れたシニアや「スマホ」に馴染まない人にとって「ライン」は利用範囲外だ。このことが即問題だというわけではない。ただ特定の機械に依存したコミュニケーションツール、情報交換(交流)手段はある特定のカテゴリーの人達のコミュニケーションや情報交換(交流)を活発にするが、他のカテゴリーの人達とのコミュニケーションを希薄にしているのではないかと危惧するのである。「フェイスブック」や「ツイッター」は「スマホ」「パソコン」「TV」などで使え、「ライン」のように特定の機械に依存することはない。しかし、これらを誰でも使いこなしているかというとそういうわけではない。苦労してパソコンに慣れたシニア世代にとって、これらはまた新たな「謎」のツールであったりする。むろんパソコンやスマホなどIT機器に日頃接しない人にとっては何のことだかさっぱりわからないだろう。このような「謎」のものをテレビや新聞で盛んに取り上げる。「この件はフェイスブックに書かれている」「この件はツイッターに流れた」などである。取り上げることに問題はないが「スマホ」「パソコン」を使わない人に対してどのように配慮しようとしているのかわからないのである。日本は変わった国だとつくづく感じる。何のことだかわからないはずなのに「ツイッターね。あのテレビでよく言っているやつね。甥っ子が使っているやつだね」と説明されるようなシーンがよくあるのだ。「知っている」というのは名前を知っているだけであって、そのものの内容はわからない状態だ。これを象徴していると思われる出来事がある。選挙活動で「フェイスブック」を使えるように法律が改正された。しかし、実際、いざ解禁になっても「フェイスブック」の活用はあまりなかったのである。知らない人を気にかけず、知っている人だけで進めてしまおうとするメディアが普及するべくもない。こういうところにも閉塞感の理由がある。
ITは個人の情報へのアクセスを広げる可能性を持つ。しかし、その広がりは鈍化傾向にあると思う。インターネット自体は草の根で発展・普及したネットであるが、これが日本じゅうに張り巡らされた後、草の根の存在や動きよりも資本を持つ企業や権力を持つ者、従来のマスコミのそれのほうが増してきているように思う。ネットを閲覧すれば必ず登場する企業の宣伝。メールを開けば勝手に配信されている企業のメール。テレビ局など従来型マスコミは「ネットはテレビよりもこんな所が良い」とはなかなか言わないのでネットを知らない人にネットの本当の良さはなかなか伝わらない。テレビ電波がデジタル化し、テレビの多チャネル化が進み、同時にネットテレビも進行した。多くのメニューやテーマが日本の社会の中にもっと示されてもいいはずなのであるが、ふたを開けてみると均質化が進んでしまっているようでならない。ざっくり言うならば「通販」と「大手メディアで選別されたニュース」があらゆるメディアを介して個人個人に否応無く降り注ぐ状態になっているのである。インターネットが普及する以前よりも、限定された情報が国民に共有化されているのである。共有化されるものが国民個々の利益の増進に繋がるならば、これほど好ましいことはないのだろう。しかし、目に耳にインプットされ増えてくる情報は無くても別段支障のないものばかりではないか。筆者は次のように考える。より多くの人に伝達するために電波を使えばいい。ネットでは電波に乗れないような少数派のものが充実し、それが時に電波に乗るようなことになればいい。そのようにして、社会の多様な価値を認め合う、ことに繋がればいい。
国民一人一人に情報へのある水準のアクセス環境が平等に準備され、それが活発に利用されること。これに向かって日本国内のネット、メディアが発展することが日本の民主主義にとって望ましいと考える。経済的なことだけで情報発信者、情報受信者が淘汰されてしまうような社会に明るい未来はないと思う。
楽しい学校とはどのようなところだろうか。生徒一人一人が自由に発想し自由に発言し自由に議論できるところだと思う。自由とは周囲に配慮しない勝手気ままなことではない。お互いの自由を尊重しながら発揮する自由とでも言おうか。自由とは何かを学ぶところでもあってほしい。そして、このことは学校だけにあらず、社会でも同じだと思う。