日本は太平洋戦争末期、米国により本土を攻撃された。各都市が順次空爆され、最後に原爆という人類至上最悪の兵器が広島と長崎に使われてしまった。原爆投下に関しては毎年一般論として次の点が様々なメディアで提示される。「戦争終結のために必要だった」「原爆を落とさなくても日本の降参は時間の問題だった。米国は実験をしたかったのだ。または、ソ連への戦力誇示が目的だった」「如何なる理由があろうと原爆投下は人道的に許されるべきではない」
日本軍部も米国政府も自国の国民から戦争をすることに対する賛同は得たかった。そのため巧みにメディアを活用した。米国では戦地に何名もの取材者を送り、映像を収録し、映画にした。米国兵の悲惨な状況はひた隠しにし、戦地に勝利の旗を掲げるシーンを強調したりした。日本は劣勢の状況を偽り、戦果を誇大に新聞やラジオで国内に伝えた。
こうした軍部に都合の良いメディア戦略は双方にも影響をもたらした。特に日本のメディア戦略と情報戦略は米国に活用されることになってしまったのである。日本は自分の国の首を自分で絞めていったといってもいい。
日本軍部は日本国民に対して戦況を偽って知らせた。これについて次の逸話がある。特攻隊の友人が相手に損害を与えることなく亡くなった。それを上司に報告する際「敵船撃沈」とした。友人の死を無駄にしたくなかったための気持ちからだ。上司はそれを受けるとともに、さらに上乗せし上部へ報告する。これらは国民に届いた時、命をかけて敵を倒した若者の勇敢な話に変質し、それが国民個々も敵に向かうような精神構造にさせられていったのである。前述の米国の映画にはこうした国民の姿が明確に使われている。それは米国兵の呼びかけにも関わらず身投げする市民の姿であり、船に突っ込んでくる特攻機であり、町工場で何かを作っているシーンを「今は兵器を作っている」と紹介しているものであったりする。このように日本は兵士だけでなく市民も一体となって戦争に参画しており、その精神構造は狂気であると米国民に植え付けられたのである。日本の市民も倒さなければならない、と米国民が考えるようになったのだ。
米国の原爆投下の根拠を日本軍部と日本のマスメディアが偽りの情報から作ってしまったと考える。もし、正常に戦果が国民に伝えられていたならば原爆は投下されなかったかもしれない。「もし」「かもしれない」という言葉を過ぎ去ったことのために使うのは前向きでないと敬遠されがちであるが事故、戦争に関しては違う。積み重ねた過ちをしっかり認め、それを確実に生かしていかなければならない。同じようなことを二度と繰り返さないためである。「あの時代は」「あの時は仕方なかった」という考え方や評価もあろう。しかし、それで思考を止めてはならないのである。何故仕方なかったのか、何故できなかったのか、何故そうしてしまったのか、とことん突き詰めていかなければならないのである。
メディアは恐ろしい。個人個人は事実・真実を求めていても、そのための思考回路や行動がメディアを通じて入ってくる情報により事実・真実に近づくどころか、遠ざかっていくことがあるからだ。偏見がないのに偏見を生み、憎しみがないのに憎しみを有む。私たちが事実・真実に近づき、そこから正しい判断を選択していくためにはどうすればいいのか。いくつか心がけていかなければならないことを列記しておく。
・自分の視点を持ち、その視点から考えてみること。
・自分とは反対意見、反対の立場の視点を想像し、そこから考えてみること。
・考えてみたことは他者に伝えてみること。
・自分の心の感じ方を大切にすること。
・100人がYESと言ってもNOだと確信しているならNOを貫くこと。自分が100人側になった場合、たった1人の意見にも耳を傾けること。
・嘘、欺瞞は誰にとっても最終的に最悪の事態を招くこと。
戦争を二度と行わないのは日本人の願いであり、日本人しての証でもあると思う。
このためにはメディアの恐ろしさを忘れてはならないことだ。欺瞞な行動は例えそれが正義のために良かれと思ったことだとしても、予想を超えたところで悪い方向に繋がることを忘れてはならない。