「公共」という言葉、日本人なら誰でも何度か見聞きしたと思う。しかし、「公共」について問われた時、自信をもって答えれる人ははたしてどの程度いるであろうか。ほとんどいないと想像する。「公共」という言葉、実は日本の中では立ち位置によって異なった解釈がなされているのである。「公共」は日本に暮らす人にとって等しく重要なことである。「公共事業」によって道路や水道など生きていくための基盤(インフラ)が整備されているのであり、その整備費は税金から確保されているのであるから当然のことといっていいだろう。そんな重要な「公共」が日本国民または地域住民の中で共有されているようで共有されていないのである。
第二次世界大戦後の荒廃した日本にとってインフラ整備は最重要事項であり、それを押し進める「公共事業」を特に否定する理由はなかった。しかし、高度経済成長期に入りこの「公共事業」による公害が深刻化した。「公共事業とは誰のための何なのか」、そういう疑問・課題を日本人が持つようになってきたのである。公害だけが疑問のきっかけではない。人口の一極集中や少子高齢化、グローバル化による産業構造の変化など新たで複雑なインフラの問題が日本国民、地域住民に押し寄せてくるが、これまでの「公共」ではとても対応できないことが皆わかってきたのである。
日本において「公共」とは何なのか。まずは自問自答してみよう。
・自分のイメージする公共と今までどのように関わってきたのか。自分はどの程度主体的だったのか。
・今後も上記の関わりあいで良いのか。駄目ならば何が駄目なのか。
世界は発達する交通や通信でお互いの理解を深めている。もちろん現在進行形のことをいっているのであって理解の程度はまだまだ浅いし、全く理解されていないことも沢山あるだろう。いずれにせよ、世界における「公共」も今後進展していく。そうなっていかなければ戦争のない平和な世界など訪れない。世界の「公共」はどのようになっていくであろうか。そして日本人は世界の公共にはたして貢献できるのであろうか。
「公共的なことのためですから」とある組織に属する人がその組織の立場である市民に説明したとする。この組織、20年前であれば概ね役所の人であっただろうが最近ではNPO(特定非営利活動法人)に属する人もいる。所謂公共的なことを仕事にする組織の種類が増えたことにはなる。しかし、このことで日本の公共が発展したと思ったら大間違いである。日本におけるNPO法人の普及の仕方にも問題はあるが、それよりも何よりも「公共」に対する認識の整理をNPO法設立時に日本人が行っていないことが最大の問題である。一時期「民にできるものは民、官にできるものは官」と当時の総理大臣がマスメディアで連呼した。それを受け、行政は闇雲にそれまで「官」で行ってきた事業を「民」に発注した感がある。本来、NPO法は市民がNPO法人を通して「公共」により主体的に関わる事を目的として設立されたものなのだ。よってNPO法人は市民への入会への窓口を広く持ったり、活動について市民に広く啓発したりするのが望ましいのである。しかし、実際は違う。もともと行政が営利企業や特殊法人に発注していた事業がNPO法人に乗り移ったにすぎない。市民がNPO法人を通じて事業に参画し、事業がより市民に共有された発展性のある、市民のためのものになっていくというダイナミックな展開が見られないのである。そこに「公共は役人が主体になって市民のためにやるもの」という考え方が垣間みえるのである。「公共とは市民が主体的に公共を定義し、主体的に公共を作り、または維持する」というものが見られないのである。
今のところ日本の公共についての正解はない。正解は日本人が模索していかなければならないことである。何も日本全体でなくてよい。地域ごとに独自に考えていくことがより重要だ。少なくとも従来の公共の進め方では日本の弱体化は食い止められないだろう。東京圏の都市人口は世界1である。日本の全人口の約30%が東京とその周辺に集中する。日本の一次産業を支えてきた地域は高齢化が進み住みインフラの維持もままならぬ状態になってきている。欧米の背中を追っかけ欧米の物真似をしていればよかった時代は通り過ぎたのだ。問題は日本固有のもの地域固有のものであることの認識を改めて持ち、住民・市民が自らのことを自らの英知で考え解決していかなければならないのである。