11月 13th, 2014

コンピュータと時間

IT関連, メディア関連, by admin.

 私たちは一日にどのくらいコンピュータに接しているだろうか。自分から主体的に接するものは省き、受動的に無意識にコンピュータから影響を受けそのことに時間をどのくらい費やしているだろうか。考え方によってはその時間の分、人生をつまらなくしているともいえるのである。あくまで考え方によるし、つまらないかどうかなどは個人の主観であるから、ここで確定的に論じはしない。ただし、一考して頂きたい。
 
 以下、「私」を「あなた」とおきかえて頂きたい。
 私はインターネット(ネット)のWeb(ウェッブ)で毎日情報を見る。それはニュースであったり、お気に入りのブログであったり、検索であったりする。さて、ある時、家の電球でまだLEDに変更していない電球を交換しようと思った。そこで、LED電球について調べようとネット検索した。なるべくリーズナブルなものはないかと探した。とりあえず目星はつけたので、今度電気店に行き、ネットで検索したものと同等なものがあれば買おうと思った。もしなければネットで注文しよう。
 
 この検索をして以来、偶然なのかいつものとおりWebでニュースを見ていると端っこに電球の宣伝が出てくる。それを見ては「そうそう、私は電球が買いたいのだ」と内心思う。そういえば電球以外でも同様なことがあった。カメラだ。カメラの検索をした時もいろんなページでカメラの宣伝がでてきた。

 以上のことはインターネットのWebの仕組みから行われていることなのだ。偶然でもなんでもない。電球のホームページを見た事がパソコンに記録される。別のホームページを見た時、その記録が参照され、広告に生かされるのである。この記録は「クッキー(Cookie)」と呼ばれるものだ。もし、この偶然のような広告を無くそうと思ったら一旦クッキーを消去することだ。使っているブラウザ(ホームページ閲覧ソフト)に消去のための設定が必ずある。

 広告が無ければ電球を買う事を忘れたかもしれない。ここで問うのは、そのことの良否なのである。もちろん人によって様々である。「忘れなくって良かった」ということが一般的だろうか。いや、電球のことはそんなに重要ではなく忘れてしまっていたほうがよかったのかもしれない。そういうこともあるだろう。何かのホームページを見る度に電球のことを考える。考えるのに時間を使う。そのことがいいのか悪いのか。誰かに薦められているわけでもない。コンピュータが自動的に薦めてくるのである。コンピュータに蓄積されたデータが統計的に処理され、私に、あなたに最も関係性あるデータを見せてくれるのである。ただし、私があなたが見たいかどうかコンピュータは気にしない。私が今日は不機嫌だたり、別のことをもっと考えたかったり、何か別のことに集中していたとしても、コンピュータは気にしないのだ。そう、私とコンピュータの共有する時間はまるで片方向なのである。つまり、私はコンピュータのためにその後ろの企業のために本来の自分を自分の時間をなんだかしならいけれど割いているのである。

 物ではないがフェイスブックという仕組みがある。使ったことのない方もTVなどで名前だけは知っている方も多いと思う。これは自分のプロフィール(属性)を記載したネット上の名刺にようなものだ。名刺といっても出せる情報量に大きな制限はない。履歴を沢山掲載する人や、写真をふんだんに使っている人もいる。ところで、このネット上の名刺には一つの大きな特徴がある。それはその人の友達関係が記載されていることなのだ。友達といってもどの程度親しいのかはわからない。ただ、その人に当ればその人の友達に繋がれる可能性はあるのである。これは有効に活用される場合もされない場合もある。もともと米国で出来上がった仕組みである。「個人」というものが重視される米国社会なら「個人」の主張や個性で繋がっていくために理にかなった仕組みなのであろう。しかし日本の事情は米国とは違うわけでフェイスブックがどこまでどのように活用されるかはまだまだ未知数である。実際、選挙で解禁されたが有効に使われた事例を聞かない。形から入る日本ではフェイスブックに機能を持て余してしまうように思う。前置きが長くなったが本題に入る。フェイスブックから頻繁にメールが届く。「あたなのお友達の○○さんからお誘いが」とか「□□さんはあなたのお友達のお友達では」というようにである。これらのメールはコンピュータがデーターベースをもとに処理してくるのであって、人間がその起点になっていないのである。つまり、ここでも前述の「物」のようにコンピュータが一方的にメッセージを送りつけてくるのである。人に心をかけられて誘われたならともかく、コンピュータが勝手に誘ってきたのである。そのように構築された人間関係(構築されたように見えるだけで実際には希薄)とそこにかかる時間をどのように考えるかである。

 人と人のコミュニケーションと時間に介在するコンピュータ。コミュニケーションをより活性化したり充実させたりするのであればいいのだが注意が十分に必要だ。いつのまにかコミュニケーションとさく時間の相手はコンピュータになっているのである。そこには双方向性はない。コンピュータに制御される自分の時間を自覚し、それを良しとするか悪いとするか、それは人それぞれであるが、くれぐれもバランスを欠かないようにするべきではないか。バランスを失った時、大げさに言えば本来人間の持つ生命力を失っていくような気がするのである。生命力とは相手を思いやったり人と協力したりという双方向的なコミュニケーションと力のやりとりのことである。

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