2020年東京オリンピックのエンブレムが2015年7月末に公式発表されたが、その直後にベルギー劇場から同劇場のエンブレムに酷似していると指摘された。同劇場は同年8月中旬に正式にこのエンブレムの権利者であるIOCを著作権侵害で提訴した。
このベルギー劇場の指摘後、ネット上ではエンブレム作成者の過去の作品についての模倣疑惑が飛び交い、それは日々増幅していった。そして、サントリー(酒造メーカー)が実施中のキャンペーン商品のトートバックに、デザインの不正があることが暴かれるまでに至った。この不正は誰が見ても明らかなものであった。ネット上にはオリジナルと不正を比較検証するサイトがいくつも立ち上げられ、それに対する意見交換がサイト内でなされた。
この問題がいつメジャーなマスメディアに出てくるのか注目された。マスメディア各社も当然ネット上のこの問題は知っている。各社なりに情報の裏を取っているのだろう。それにしてもなかな取り扱われない。口火を切ったのはNHKだった。ある日の夕方のニュースである。翌日、新聞記事となり民放各社で一斉にニュースにし、お茶の間ニュース番組は特集にした。
これらのニュース番組では不正に関わる情報がネット内で検証されたことに着目していた。トートバックに使われた画像がどこの画像を盗用したものなのか、世界じゅうのコンピュータから探しだされた事に、あるコメンテーターは驚いていた。ネットをあまり使わない人には驚くことなのだろう。しかし、ネットを頻繁に使う人にとって、これは大したことではない。現在のネット上の検索機能は同類の画像を探し出してくる。各種のSNS、ブログを使って探し出したものをお互いに共有しながら検証し、精査することができるのである。情報は多くの人の分析力というフィルターによってふるいにかけられるのである。
トートバックの件以降もネット内での追求は収まらなかった。疑惑のあるオリンピックエンブレムが撤回される様子がなかったこともあると思われた。疑惑を深める作成者の過去の作成がさらに探し出されていったのだ。結局、最後は審査や会見の中で使われたエンブレムの展開写真の資料に明らかな盗用が発覚し、これをエンブレム作成者本人が認め、そのことが決定打となって、エンブレムは白紙撤回された。この白紙撤回までの経緯についても様々な問題があるがそのへんは他に譲る。そして、この決定打もネット上の追求で発覚したのである。
ネット内の様々なサイトではネット内のこの動きを「ネット民の動き」として扱っているものが多かった。ネットの動きがエンブレム撤回に繋がったことを説明しているのである。
本件で以下の3つの点に着目した。
(1)既存マスメディアの動き
(2)ネットのニュースへの平常化
(3)ネットに関するリテラシー
(1)既存マスメディアの動き
マスメディア各社はトートバックの問題を把握していたが、それを最初にニュースにしたのはNHKであり、それを待っていたかのように翌日一斉に各局が放送し、同時に大手新聞に掲載された。これが何を指し示すか。ニュースの内容によって、マスメディア各社に規制がかかり、報道されないということである。もちろん誘拐や事件など規制が必要なこともある。しかし、本件に関しては規制に関する正当な理由が考えられない。各社とスポンサー、この二者を仲介する広告代理店、これらの力関係が関係し、何かしらの理由で規制されたのだ。それがあるところからの強制なのか、暗黙の了解による自主規制なのか定かではない。いずれにせよ、これは、情報発信の自由、情報アクセスの自由が確保されている国であるとすれば、好ましくない状態である。日本が戦争で甚大な犠牲をはらった大きな原因は、マスメディアが統制されたことによる。本件は、今なおまだ、当時の体質が消えず、復活する可能性のことを物語っている件だと考える。
(2)ネットのニュースへの平常化
今回のネットによる検証を「ネット民による」と説明しているネット内の記事が目立った。「ネット民」にエンブレム撤回の立役者としてスッポトをあてているのであるが、一方で「暇なネット民が」とうように皮肉っているものも散見された。エンブレム作成者を単に誹謗中傷する投稿ももちろん沢山あった。ネットを使ってネット内で発信または投稿する人の集団を「ネット民」と称しているようだ。しかし、この「ネット民」という表現は過去のものになりつつあると考える。今や多くの人がスマートホンでネットに接続している状態だ。閲覧だけの人は、社会と同様に発信や投稿する人よりも数多くいるのである。ネットに繋がっている人なら「ネット民」のはずだ。そうであれば、今更「ネット民」と表現するのもナンセンスな話なのだ。皆、ネットに繋がっているからだ。人がある集団を作ればその中で必ず役割分担が別れる。例えば「発信者」「分析者」「受信者」というようにだ。「ネット民」は特別なものではない。ネットで発信をする人は「ネット民」ではなく、皆が繋がったネットというメディアの中で「発信の役割を担っている人」なのである。もちろん様々な役割の人がいるのである。
「ネット民は誹謗中傷したり、あら探しをしたり、追求の手を緩めない」というような記事もネット内にあった。ネットは匿名性が高い。それゆえ本音も出しやすい。自分の考えを率直に述べるということもあれば、憎しみや嫉妬の気持ちまで出してしまうこともある。人間の醜さを出し、それを反省し、また何かを出し、と「しっちゃかめっちゃか」という表現が合うような気がする。「しっちゃかめっちゃか」しながらも、悪を叩こうと動く。けして「むちゃくちゃ」ではないのである。人々の思いが「しっちゃかめっちゃか」に絡み合いながら何かを動かすのである。「しっちゃかめっちゃか」がなければエンブレムの白紙撤回はなかったのである。1年くらい前にあったスタップ細胞の件も同等だろう。今や、マスメディアにのってくるニュースを後押しするのはネットなのである。それは特別なことではなくなってきているのである。
(3)ネットに関するリテラシー
ネットは誰もが使うようになってきたが、そこで起こる新たな効果や事象についてはまだ解明されていない。これらを常に検証しながら、ネットを使うことが必要である。今回のエンブレム騒動である事が起きた。「オリンピックエンブレムが採用されると、作成者(個人または組織)に200億円が入る」という情報がネットに流通したのだ。オリンピックという日常では触れない特殊なイベントがこのような話をスルーさせてしまうのだろうか。冷静に他の収入ケースと比較すれば、この金額がおかしいことは明らかである。では、何故流通してしまったのか。TVに頻繁に登場する教育評論家が、自分のブログで発信したのが事の始まりだったようだ。この教育評論家も、ブログで確かめもせずに軽率だったと反省している。この例でわかるように、ネットは個々の検証力が相乗効果を発揮すれば情報を精査していくことになるが、検証がうまく機能しない場合、間違った情報も簡単に広まってしまうということである。幸いこの情報もある時点で「情報の出所はどこだ」という検証力が働いたようで、深刻な問題には至らなかった。受信者が発信者を信頼している場合、信頼性を確かめる必要のある情報も、ネットでは安易に拡散されれしまう可能性があるということである。これに似た例として「血液型A型の人は献血に協力してほしい」という、ネット内を騒がせることを目的とした発信が何度かあった。実際に騒ぎになってしまったケースもあった。
「どこから発信されたものなのだ?」、「何を目的にしたものなのだ?」、「自分ならこういうものを発信するか?」と一人称(責任主体)に近づいて考えていくと、流れてきた情報にある不可思議さが見えてくる。しかし、一人称にならずに、流れてきた情報のどこかに「信頼性」を感じさせるものがあると、それのみに魅かれ、他者へ「安易」に情報を転送してしまうのである。「一旦、情報を自分に取り込み、一人称で考えてみる」といったネットリテラシーが今後ますます重要になってくる。
「その情報はどうしたの?」と聞かれて「Aさんが言ってたから」では駄目だということだ。
5年くらい前までは、ネットへのアクセスにある程度の技術が必要だった。そのため、ネットを使う人はそういう技術を持つ人に偏りがちになった。今は音声認識で検索できる時代だ。ネットを利用するのにキーボードによる英文字入力やマウス操作の練習は、必ずしも必要ない。ネットは皆のものになったといっていいだろう。これからは、どのように使うと良く、どのように使うと悪いのか、このメディアを上手に使っていくことが国民一人一人に求められている。「ネット民」というくくりで傍観する時代は過ぎたのだ。そして、日々見聞きするニュースには必ずネットが関係する。ネット内の協同検証、従来どおりの取材、この双方の協同作業などがあるのである。