2月 19th, 2015

表現の自由について

コミュニケーション関連, メディア関連, 教育関連, by admin.

フランスの某新聞にイスラム教に関する風刺画が以前から掲載されていたが、それがもとで同新聞社の編集者や関連の画家が最近暗殺された。

この事件を受け「表現の自由」について様々な観点がニュースに出された。「表現の自由が暗殺に屈してはならない」という主張や「宗教を冒涜するような風刺画の掲載は不適切」などが出たわけである。

「表現の自由」について考えてみる。

民主主義においてどのような個人にもその表現の自由は確保されるべきだと思う。表現されたものが伝達する媒体に制約があったとしても、である。文字を書きたいのにペンを与えないとか、笛を吹きたいのに笛を持つことを禁じるとか、そういうことはされるべきでないということだ。

さて、問題なのは「表現の伝達する媒体に関する制約」である。表現したものが表現した本人以外に示されることになるが、その示される対象や伝達方法である。

人は社会に住む以上、人同士お互いに影響し合う。影響の度合いはもちろん様々だ。深く影響される場合もあれば、ほとんど影響されない場合もある。ただ、どのような影響が直接的にも間接的にもどのようになされているのかは実は単純ではない。一度も会ったことのない人にも十分影響されてしまっている場合もある。それも影響された本人が自覚している場合もあれば、自覚のない場合もある。このへんの詳しい話は別にするとして、いずれにせよ「人の表現」というものは人に影響を与えるのである。

一般的に受ける影響が不快と予想される場合、そういう予想がされる「表現」はその伝達される「場」において予め制約を受けている。規約で制約を受けている場合もあれば、慣習で暗黙の了解で受けている場合もある。例えばある結婚披露宴の会場であれば不幸を連想される歌詞の歌は一般的に御法度である。また公共的な場、例えば公園において裸になれば「公然わいせつ罪」という法律で罰せられる。

さて新聞へのイスラム教の風刺画掲載はこれらの例と比較してどうだろうか。新聞といってもその発行部数や配布対象など様々であるから「新聞」として一括りにはできない。不特定多数に配布され、その影響範囲が一国に及ぶとしよう。そうした場合の新聞において「表現の自由」はどうあるべきなのか。その一国が「表現の自由」をどこまでどのように許容するのか、その国の慣習や法律によって変わってくるであろう。実はここでは答えのようなものは出せない。答えを出すための尺度を持つことができない。極端に言えば、その尺度はその時その時の国民の心の有り様で変わってくると考える。ただし、強いて言うならば、こうした社会的に影響力の大きい媒体を通じて何かを発信・表現する場合、それに対する反論についてもその媒体に掲載する仕組みとなっていることが重要であると考える。そうでないと権力や資本を持った者だけが「表現の自由」「言論の自由」を盾に言いっぱなしの状況になってしまうからである。もっともそうした新聞や媒体はそれなりに許容範囲の狭い、そして偏向の強いものとして市民は押さえるようにすることも大切だろう。

ジャーナリストと自称する人が「何かに対する反論はジャーナリストとして言論で反論すべき」と言う。これは半分合っているが半分間違いであるように思う。ジャーナリストだけが言論で反論できるような環境は民主主義にとって片手間なのである。文書を作成することが不得手な人であってもその意志を表明できるような発信環境を社会的に用意できているかどうかが、その国の民度の成熟度に関係していると考える。

「表現の自由」について何も結論は出せなかった。ただし次の推論にたどり付いた。「表現の自由」を発揮する場が誰にも等しく確保されるようにしていくことが「表現の自由」を担保していくことに繋がっていくのではないか、ということである。

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