12月 4th, 2014

マスコミになったつもりで新聞・TVを読んで(見て、聞いて)みよう!

メディア関連, by admin.

 ある政党が正式に文書で各放送局に放送の公平中立、公正を求める要望書を出したと某新聞で報じられていた。選挙公示前の街頭インタビューの放送での扱い方がこの政党にとっては不利に感じたようであり、それを「公平ではない」と要望書で訴えたのだ。このニュースを受け、マスコミ各社はどのような対応をするのだろうか。このニュースについて一般視聴者、読者のネット上の意見にはテレビ局や新聞社により一層の公平中立を求める声が少なくなかった。

 ところで「公平中立」とは何なのか。このことをよく考えてみるべきである。この言葉は妥当な場合もあるが、その反対に相応しくない場合もあるのだ。例えば「あなた(Cさん)はAさんとBさんのどちらの意見に賛成か」二者択一の選択を迫られ「私はどちらでもありません。中立です」という中立は誰でも概ね理解できるだろう。しかし、Cさんが答えるにあたり、Cさんに対してAさんとBさんの情報を公平に提示することはどうだろうか。Cさんに提示するのはこの場合Dさんとしておこう。Dさんにとっては扱う情報はAさんとBさんのものしかない。が、この二人の情報を公平に扱い公平にCさんに提示することは容易ではないのである。Dさんになったつもりで考えてみればより見えてくる。

 まずAさんとBさんのどちらを最初にCさんに提示するか迷ってしまうかもしれない。DさんはAさんともBさんとも全く何の共通点も面識もなかったならそれほど迷わないかもしれない。しかし、Bさんと少し知り合いだったらどうなるだろうか。またはもともとBさんの考え方に賛同していたらどうなるだろうか。物事を公平に扱うことは実に難しいことなのである。先着順に当選するとか、身長順に並んでとか、そのようにある基準となる尺度を設けられる場合にはそれに基づき中立公平として提示しやすいが、「伝えたい事、知らせたい事」が単純に比較できない物事の場合、中立公平は極めて困難なことである。よって言うまでもないことであるが「編集」という作業が情報発信には必ず立ち入ってくる。何を一番伝えたいのか、その目的により、どのような情報を選んで、どのように見せるのか、などのことである。このことをあくまで受け身で受信者側として聞くと「ふーん」で終わりかねない。発信者側の立場になって考えてみることが必要だ。それで「マスコミになったつもりで・・・」というタイトルをこの記事に付けた次第だ。例えば、今の政権に関して街の人はどのように考えているのだろう、とあなたが街頭インタビューしたとする。あなたが何をどのように感じるかが最も大切な部分だ。10人にインタビューしたところ、9人は現政権に否定的で1人は肯定的だっだとする。この結果があなたの予想どおりなのか、それとも違うのか。またはあなたはどちらにも予想はしていなかったのか。予想と結果のギャップ(格差)によって、その後の取材の方向性も変わってくるはずだ。何故ならばそこに「何故?」「何故?」が入ってくるからだ。「何故、現政権は肯定されているのだ。何故、予想に反して指示が高いのか。たまたまインタビューした対象がそうだったのか?何故」というようにである。そして、この「何故?」こそが、インタビューする人、記事にする人、発信する人の「視点」を形成、それは編集の意図となり、その意図が反映されて番組や記事となるのである。

 「視点」とは何か。ある円柱が目の前にあったとする。これをどこから見るのか見ている位置を「視点」と単純に考える。ある1点から見て「これは円柱である」とするのか、円柱を倒して底面を見るのか、それとも内部に潜入してみるのか。取材する人によって「視点」の数や位置が変わるのである。そこのところを追求するならば、取材する人の「経験」「目的」「想像力」などによって「視点」は変わるのである。「視点」が変われば円柱のもつ意義とか意味も変わってくるのである。もし、中立公平を徹底することが最大の目的ならば、より多くの視点からこの円柱を見なければならないが、そこにはおのずと限界がある。そして多くの視点の結果をそのまま番組や記事にすれば視聴者には情報の羅列にしかみえないだろう。結局、記事は何の意味もなさないで終わるのである。つまり、番組なり記事になるには、そこに、どういう視点から見るか、何故その視点としたのかなどの編集方針と編集が必ずあるのである。そこには中立公平に対する配意はマスコミとして何かしらあるのであるが、中立公平にすることは不可能といっても過言ではない。そして、中立公平に近づくことが社会のために必ずしも良いとは限らない。国民の半数以上がAという政党に投票したとする。だからAという党について常にどのような話題でも公平の観点にたって一番最初に取り扱う。そういうことをどこの新聞もテレビ局も同じように行う。結果、国民はAという党に詳しくはなるが、他の党のことはわからなくなる。他の党にいくら未来の日本を良くする何かがあったとしても国民の目に触れなくなるのである。このことはけして民主主義にとって良いことではない。Aという党を投票の数から真っ先に取り上げる新聞もあれば、エネルギー問題の観点からBという党を現在の支持者がいなくとも真っ先にとりあげる新聞があってもいいのである。

 私たちが持つべき力は自分の視点で既存のマスコミから自分に必要な情報を読み取ることである。そのために、まずは自分が新聞社やテレビ局になったつもりで新聞、TVを視聴することである。どのような編集意図があるのか想像できればそれは一歩も二歩も民主主義として前進である。実は、新聞やテレビをあえてカットする(視聴しない)ことも必要である。カットして実際の人の声により耳を傾けることなどがある。そして、できれば「なったつもり」から「実際に発信する」になるといい。ブログやSNS(エスエヌエス)ならその気になれば誰でも使って発信できる。発信したからといって即受信されるわけではない。が、発信の際に必ず編集がある。実体験を通じて編集というものを知り、その見識でマスコミを読むのである。

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