パブリックアクセス。この言葉に馴染みはあるだろうか。わかるようでわからない言葉ではないか。「パブリック」は「公共」、「アクセス」は「出入り」と訳せば「公共的な出入り」と直訳できる。
外国にはパブリックアクセスに関する個人の権利について重視し、その確保に努めている国がいくつかある。「パブリックアクセス」は主に情報に関することとして扱われている。
民主主義にとって情報の扱いに関しては言う迄もなく重要なことだ。公的な情報にその公を構成する個人がアクセスできる権利がどの程度確保されているのか、それはその公の民主主義の状況を示すひとつの重要な指標になる。この「アクセス」には前述の「出入り」と言うように情報でいえば「発信」と「受信」がある。この「発信」と「受信」について日本の状況を考えてみる。
日本では「知る権利」ということで、情報公開制度があったり、公共図書館があったり、テレビ放送やラジオ放送の電波が全国津々浦々伝搬している。これらがあるからといって、この権利がどこまで確保されていることになるのか、それはまた別問題だが、少なくとも何かしら対応されているといっていいであろう。ところで、これらは「受信」ということになる。では「発信」に関してはどうであろうか。
日本ではおよそ「放送」と名のつくメディアにおいては個人に「発信」が権利として確保されてはいないであろう。仮に形としては発信されているにせよ、その発信の内容に発信者の意図がどの程度反映されているかはまた別問題である。反映が少なければ、それは本来の発信とはならないだろう。いずれにせよ、放送局に編集権があるのであり、放送局の意にそぐわないものは放送に至らないのである。
ヨーロッパや北米では「発信」の権利が確保されている国がある。この権利は「パブリックアクセス権」とも言われる。アメリカやカナダ、ドイツ等がある。個人に編集権のある発信が確保されているのである。放送にいたる迄には所定の研修を受ける必要があったり、ある程度のガイドラインに沿わなければならなかったりする(単なるコマーシャルは駄目だとか)が、いずれにせよ最終的に放送の内容に対して発信者個人が責任を持つ事になる。ケーブルテレビ業者に対してパブリックアクセス用のチャネルを設けることを法律で義務づけているところもある。
ヨーロッパや北米のこのような状況には当然それなりの背景がある。一国が多種多様な民族や言語で構成されているので、それぞれの発信を確保することが国民同士の相互理解のために欠かせないことがまず上げられる。そして「パブリック」「公共」に対する考え方である。ヨーロッパや北米では「パブリック」「公共」はまさに国民の共有物として扱われる。国民が平等に扱うことができない対象は「パブリック」でも「公共」でもないのである。放送に関わる電波や電線は「パブリック」「公共」として扱われ、その中に情報を通す行為そのものも「パブリック」「公共」なのである。
日本における「パブリック」「公共」はヨーロッパや北米のそれとはかなり違うのである。例えば、日本では電波をどのように取り扱っているのか。放送法等の制度の実際は別にゆずるとして、実態としてはとても前述の「パブリック」「公共」とは呼べないであろう。基本的には権力(公的な権力や金銭的権力)を持つ者に圧倒的に有利に発信は割り当てられている。放送される内容に関してはマイノリティー(社会的少数者)の範疇はほとんど扱われない。
パブリックアクセスのあり方は今後の日本の発展に大いに関係してくる。日本に真の自治社会をもたらすために変わっていかなければならない不可欠な要素である。この20年、インターネットが日本に普及してきた。発信に関して特に規制はない。しかし、パブリックアクセスは進化しているであろうか。どのような方向に向かっているであろうか。このへんは別途記載する。